蔦屋重三郎の妻は誰?名前は「よし」「てい」どっち?実在した妻を徹底解説【べらぼう】

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蔦屋重三郎の妻は「よし」?「てい」?実在した妻と瀬川の関係【べらぼう】

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」で横浜流星演じる蔦屋重三郎の妻として、橋本愛が「てい」を演じています。しかし、史実で蔦重の妻の名前は「てい」だったのでしょうか?それとも別の名前だったのでしょうか?

蔦屋重三郎の妻は実在しました。

正法寺(東京都台東区)の過去帳には、文化8年(1811年)10月18日に死去した女性の戒名「錬心院妙貞日義信女」という記録があり(一部の資料では文政8年(1825年)10月11日とする説もある)、これが蔦重の妻とされています。

蔦重は寛政9年(1797年)5月6日に47歳で死去しているため、妻は夫の死後14年間生き続けたことになります。

しかし、妻の実名については諸説あります。正法寺の説明書きでは「おてい」と記載されていますが、戒名の慣習では俗名は「日義」に入れるのが一般的なため、「よし」または「よしこ」の可能性が高いと考えられます。

また、ドラマでは小芝風花演じる「瀬川」が蔦重の初恋の相手として登場しますが、史実での蔦重と瀬川の関係は不明です。

【この記事で分かること】

  • 蔦屋重三郎の妻は実在したのか?
  • 妻の名前は「てい」か「よし」か?
  • 正法寺の過去帳に記された戒名の意味
  • 大河ドラマ「べらぼう」の橋本愛が演じる「てい」と史実の違い
  • 瀬川(小芝風花)との関係は史実か創作か?
  • 妻の死後14年の生涯と墓所(正法寺)
目次

結論:蔦屋重三郎の妻は実在した【史料で確認】

【重要】蔦屋重三郎の妻について史実で確認できること

  • 妻は実在した(正法寺の過去帳に記録)
  • 蔦重の死去時に妻がいた(墓碑銘に記録)
  • 文化8年(1811年)10月18日に死去(一部資料では文政8年(1825年)説あり)
  • 蔦重の死後14年間生きた
  • 正法寺に埋葬(蔦重の墓の隣)

蔦屋重三郎には妻がいました。これは史料で確認できる事実です。

蔦重の菩提寺である正法寺(東京都台東区東浅草)の墓碑には、「錬心院妙貞日義信女 文化八年十月十八日 蔦屋重三郎妻 おてい」という記録が残っています。

また、蔦重の墓碑銘には「寛政丁巳の年の夏、五月六日にこう言った。『私は今日の昼時には死ぬよ』身の回りの始末をし妻と別れの言葉を交わし」とあります。蔦重が死の床で妻を呼び、別れの言葉を交わしたことは確実です。

注意:妻の死亡日について、正法寺公式サイトでは「文化8年(1811年)10月18日」と記載されていますが、一部の資料では「文政8年(1825年)10月11日」とする説もあります。正法寺の一次史料を重視し、本記事では「文化8年(1811年)10月18日」を採用しています。

蔦屋重三郎の妻の名前は「よし」か「てい」か?

蔦屋重三郎の妻の実名については、正確な記録が残っていません。しかし、正法寺の戒名「錬心院妙信女」から、「てい」または「よし」と推測されています。

「てい」説:戒名「妙貞」から推測

正法寺で配布している説明書き「蔦屋重三郎と正法寺」には、「錬心院妙貞日義信女(蔦屋重三郎妻 おてい)」と記載されています。これは、戒名の5文字目「妙」の「」から「てい」と推測したものです。

大河ドラマ「べらぼう」でも、橋本愛演じる妻の役名を「てい」としているのは、この正法寺の説明書きに基づいていると考えられます。

「よし」説:戒名「日義」から推測【有力】

一方、戒名の慣習では、俗名(生前の名前)は「日義」の部分に入れるのが一般的です。

Japaaan記事では、次のように解説されています。

「ただし俗名(ぞくみょう。生前の名前)から一字を戒名に入れる時は、たいてい日『義』の部分に入れます。なので蔦屋重三郎の妻について、戒名から実名を推測するなら『義』の方が近い(可能性が高い)でしょう。

その場合、彼女の名前は『よし』または『よしこ(義子)』等ではないかと考えられます。」

戒名の慣習から判断すると、蔦屋重三郎の妻の名前は「よし」または「よしこ」の可能性が最も高いと考えられます。

大河ドラマ「べらぼう」での妻・てい【橋本愛】

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、橋本愛が蔦重の妻「てい」を演じています。ドラマでは、日本橋の老舗本屋・丸屋小兵衛の娘として登場し、漢籍も読みこなす知識人として描かれています。

蔦屋重三郎の妻については史料がほとんど残っておらず、ドラマのていは脚本家によって創造されたオリジナルキャラクターです。

史実で確認できるのは、妻が実在したこと、名前は「てい」または「よし」、蔦重の死去時に別れの言葉を交わしたこと、文化8年(1811年)10月18日に死去したことのみです。

瀬川との関係は史実か創作か?

ドラマでは、小芝風花演じる「瀬川」が蔦重の初恋の相手として登場します。

史実では蔦重と瀬川の関係は不明です。五代目瀬川という花魁は実在しましたが、蔦重との関係を示す史料は残っていません。

蔦屋重三郎の妻の出自と結婚時期

蔦屋重三郎の妻の出自については、史料がほとんど残っておらず、詳細は不明です。

本屋の娘説、吉原の遊女または芸者説、普通の町娘説など複数ありますが、いずれも推測の域を出ません。

結婚時期も不明ですが、蔦重が日本橋に進出した天明3年(1783年)頃、33歳の時に結婚した可能性があります。

子供はいたのか?

『絵本吾妻抉(えほん あづまからげ)』には、蔦屋重三郎が恵比寿講を開き、妻子と共に商売繁盛を祈願する様子が描かれています。

耕書堂を継いだのは番頭の重助であることから、男子はいなかった可能性が高いと考えられています。

身上半減の処罰と妻

寛政3年(1791年)3月、蔦屋重三郎は「身上半減」の処罰を受けました。

処罰の理由は、山東京伝の洒落本3作を出版したことです。松平定信による寛政の改革の一環として、風俗を乱す出版物の取り締まりが強化されており、蔦重は見せしめとして処罰されました。

身上半減の処罰を受けた蔦重を、妻は支え続けました。財産の半分を失った(または年収の半分を失った)蔦重と妻は、生活を切り詰めながら、耕書堂の再建に努めたはずです。

身上半減について詳しくは、こちらの記事で徹底解説しています。

蔦屋重三郎の死と妻

寛政9年(1797年)5月6日、蔦屋重三郎は47歳の若さで死去しました。死因は「脚気(かっけ)」でした。脚気は、ビタミンB1の欠乏によって引き起こされる病気で、当時の江戸では「江戸患い」と呼ばれていました。

蔦重の墓碑銘には「寛政丁巳の年の夏、五月六日にこう言った。『私は今日の昼時には死ぬよ』身の回りの始末をし妻と別れの言葉を交わし、従業員にも暇を告げてから横になった。そして正午過ぎに果たして死んだ。行年四十七歳」とあります。

蔦重は、死の床で妻を呼び、別れの言葉を交わしました。妻は、蔦重の最期を看取りました。

妻の死後14年の生涯

蔦重の死後、妻は14年間生き続けました。蔦重の死後、番頭の重助が養子となり、二代目蔦屋重三郎を襲名しました。

妻は、二代目蔦屋重三郎を支えながら、耕書堂を見守り続けたと考えられます。

文化8年(1811年)10月18日、妻は死去しました(一部の資料では文政8年(1825年)10月11日とする説もあります)。

蔦重と同じ正法寺(東京都台東区東浅草1-1-15)に埋葬されました。蔦重の墓の隣に、妻の戒名「錬心院妙貞日義信女」が刻まれた墓碑があります。

蔦重と妻は、死後も正法寺で共に眠っています。

正法寺へのアクセス

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