東洲斎写楽は何者?10か月で消えた理由を即答(蔦屋の勝負の売り出し)

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東洲斎写楽は何者?10か月で消えた理由を即答(蔦屋の勝負の売り出し)

東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は、寛政6年(1794年)に、黒雲母摺(くろきらずり)を用いた豪華な大首絵28図で鮮烈なデビューを飾り、わずか約10か月で忽然と姿を消した、謎の浮世絵師です。

この記事では、彼の正体と消えた理由に関する諸説を、版元・蔦屋重三郎との関係から分かりやすく解説します。

結論:東洲斎写楽は、寛政6年に黒雲母摺の大首絵28図で登場し、約10か月で姿を消した謎の絵師です。版元は蔦屋重三郎で、作品は約145点余りが4期に分けられます。

目次

写楽は何者?

東洲斎写楽は、寛政6年(1794年)5月に、28図にも及ぶ役者の大首絵で鮮烈なデビューを飾り、翌年1月までの約10か月間で145点余りの作品を残して姿を消した、役者絵の革新者です。

年表(寛政6年〜寛政7年の4期)

彼の短い活動期間は、作品の様式から以下の4期に分けられています。

時期主な特徴
第1期寛政6年5月。黒雲母摺を用いた豪華な大判の「大首絵」28図。
第2期同年7月〜8月。全身像を描いた「細判」などが中心。
第3期同年11月〜閏11月。背景のない「間判」や、顔のみをアップにした作品が登場。
第4期寛政7年1月。相撲絵や武者絵なども手掛ける。

寛政6年5月から翌年1月までの約10か月に145点余を版行、作品は4期に分けられる。

【出典】Wikipedia

売り出しの特異性(蔦屋の勝負)

写楽のデビューは、版元である蔦屋重三郎の、常識破りなプロデュース戦略によって演出されました。

黒雲母摺・大判・大首絵という豪華仕様

1794(寛政6)年5月、背景に黒い雲母の粉末を用いた豪華な大判役者絵28図が一挙に出版された。版元は蔦屋重三郎。

【出典】Nippon.com

考察

当時、無名の新人絵師に、高価な黒雲母摺(くろきらずり)を用いることは異例とされます。

これは、蔦屋重三郎が写楽という才能に、社運を賭けるほどの大きな自信を持っていたことの表れと言えるでしょう。

なぜ10か月で消えたのか?(諸説あり・断定不可)

彼の活動が、なぜわずか10か月で終わってしまったのか。

その理由は、今なお歴史の謎とされており、いくつかの説が存在します。

能役者(徳島・斎藤十郎兵衛)説

徳島の能役者・斎藤十郎兵衛を有力候補とする動きが報じられている。

【出典】47NEWS

考察

これは、彼が阿波藩お抱えの能役者であり、江戸での活動が藩の事情により制限された、という説です。

市場要因・規制影響・工房制作説

考察

その他にも、あまりに個性的すぎる作風が商業的に失敗したという「市場要因説」や、寛政の改革による出版統制の影響を恐れたという「規制影響説」、そもそも写楽は個人ではなく工房の共同ペンネームだったという「工房制作説」など、様々な説がありますが、いずれも決定的な証拠はありません。

写楽の代表作

  • 三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛(東京国立博物館蔵)
  • 市川蝦蔵の竹村定之進(東京国立博物館蔵)

《市川鰕蔵の竹村定之進》《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》などが著名である。

【出典】Nippon.com

FAQ(よくある質問)

写楽は何者?

寛政6年に黒雲母摺(くろきらずり)の大首絵28図で鮮烈デビューし、約10か月で活動を終えた謎の絵師です。

写楽の代表作は?

《市川蝦蔵の竹村定之進》や《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》など、第1期の大首絵がよく知られています。

なぜ10か月で消えた?

能役者説が有力候補の一つとされていますが、市場要因説などもあり、特定はされていません(断定不可)。

写楽の作品はどう整理される?

約10か月の活動期間は作風から第1〜第4期に区分され、総数は約145点余りです。

東洲斎写楽は何者?まとめ

東洲斎写楽は、版元・蔦屋重三郎の社運を賭けたプロデュースによって、彗星の如く現れ、そして消えていった謎の天才絵師でした。

その正体は今なお謎に包まれていますが、彼が遺した約145点余りの作品は、浮世絵の歴史に燦然と輝き続けています。

(※総作例数は文献により140〜145点余など幅があります)

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