田沼意次とは?息子・意知の暗殺と失脚の理由を徹底解説【べらぼう渡辺謙】

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田沼意次とは?息子・意知の暗殺と失脚の理由を徹底解説【べらぼう渡辺謙】

江戸時代中期、幕府の財政を立て直すため重商主義政策を主導した老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では渡辺謙が演じ、再び注目を集めています。

田沼意次とは、享保4年(1719年)に紀州藩士の子として生まれ、わずか600石の旗本から5万7,000石の大名へ異例の出世を遂げ、10代将軍・徳川家治のもとで老中として「田沼時代」を築いた人物です。

しかし、息子・田沼意知が江戸城内で暗殺され、天明の大飢饉と賄賂政治への批判により失脚。近年は「賄賂政治家」から「改革者」として再評価されています。

【この記事で分かること】

  • 田沼意次の生涯と異例の出世の経緯
  • 息子・田沼意知の暗殺事件の真相
  • 失脚の3つの理由(天明の飢饉・賄賂政治・将軍家治の死去)
  • 松平定信との対立と「田沼恋しき」の狂歌
  • 大河ドラマ「べらぼう」での描かれ方

出典:

目次

結論:田沼意次を5つのポイントで即答

田沼意次とは、

享保4年(1719年)に紀州藩士の子として生まれ、10代将軍・徳川家治のもとで老中として「田沼時代」を築いた江戸時代中期の幕臣です。

5つのポイント

① 紀州藩士の子から5万7,000石の大名へ異例の出世

享保4年(1719年)、遠江国相良(現在の静岡県牧之原市)に生まれ、徳川家重の小姓から側用人、さらに老中へと昇進しました。宝暦8年(1758年)に1万石の大名となり、最終的に5万7,000石の相良藩主となりました。

② 株仲間の奨励・印旛沼開発など革新的な重商主義政策

商人組合(株仲間)に特権を与えて運上金(税金)を徴収、印旛沼・手賀沼の干拓、蝦夷地開発、長崎貿易の拡大など、従来の農業重視から商業重視へ政策を転換しました。

③ 息子・田沼意知の暗殺事件で権勢が衰える

天明4年(1784年)3月24日、嫡男で若年寄の田沼意知が江戸城内で旗本・佐野政言に斬りつけられ、2日後に死去しました。この事件が意次失脚の転機となりました。

④ 天明の飢饉と賄賂政治批判により失脚

天明の大飢饉(1782-1787年)による社会混乱と、賄賂政治への批判が高まり、天明6年(1786年)8月、将軍・徳川家治の死去を機に老中を辞任、領地も2万石減封されました。

→ 失脚後、松平定信が老中に就任し、田沼時代の政策を否定する寛政の改革を断行しました。詳しくは「松平定信とは?」および「寛政の改革とは?」をご覧ください。

⑤ 近年は「賄賂政治家」から「改革者」として再評価

かつては「賄賂政治の代名詞」とされましたが、近年の研究では「日本初の経済政策立案者」として再評価が進んでいます。

【田沼意次の基本データ】

項目内容
生年月日享保4年7月27日(1719年9月11日)
没年月日天明8年6月24日(1788年7月24日)、享年70
身分紀州藩士の子→旗本→大名(遠江相良藩5万7,000石)
官位従四位下・遠江守
在任期間側用人(1745-1769年)、老中(1772-1786年)

出典

田沼意次の基本情報【家系図・生年月日】

享保4年(1719年)生まれ、天明8年(1788年)死去

田沼意次は、享保4年7月27日(1719年9月11日)、江戸で紀州藩士・田沼意行(おきゆき)と母・辰の長男として生まれました。幼名は龍助(りゅうすけ)といいます。

天明8年6月24日(1788年7月24日)、江戸で死去しました。享年70歳でした。

紀州藩士の子から相良藩主へ異例の出世

田沼意次の父・意行は、もともと紀州徳川家の足軽という低い身分でしたが、享保元年(1716年)に徳川吉宗が8代将軍に就任すると、吉宗に従って江戸へ移り、幕臣(旗本)となりました。

意次は延享2年(1745年)、27歳の時に9代将軍・徳川家重の小姓として仕えるようになり、宝暦8年(1758年)に1万石の大名となり、遠江国相良(現在の静岡県牧之原市)の藩主となりました。

その後も出世を重ね、最終的に5万7,000石の相良藩主となりました。これは、紀州藩の足軽出身という低い身分から、大名にまで上り詰めた異例の出世でした。

家系図:田沼氏の家族構成

田沼意次の家系図(簡略版)

世代人物関係備考
祖父田沼義房意次の祖父紀州徳川家の足軽
田沼意行(おきゆき)意次の父徳川吉宗に従い幕臣に
辰(たつ)意次の母田代高近の養女
本人田沼意次(おきつぐ)1719-1788年遠江相良藩主・老中
田沼意誠(おきのぶ)意次の弟1773年死去
田沼意満(おきみつ)意次の弟
妻(正室)伊丹直賢の娘意次の正室子はなし、20代で死別
妻(継室)黒沢定紀の娘意次の継室意知の母
長男田沼意知(おきとも)1749-1784年若年寄、江戸城内で暗殺
四男田沼意正(おきまさ)1754-1836年陸奥下村藩5代目当主
田沼意明(おきあき)1773-1796年意知の長男、陸奥下村藩初代当主

田沼意次は、伊丹直賢の娘と結婚しましたが、2人の間に子は授かることなく、意次が20代のうちに死別してしまいます。その後、黒沢定紀の娘と再婚し、跡継ぎとなる田沼意知を授かりました。

意次には判明しているだけでも9人の子がいましたが、嫡男の意知は天明4年(1784年)に江戸城内で暗殺されてしまいます。

家紋は「七曜紋」(北斗七星)

田沼家の家紋は七曜紋(しちようもん)です。これは、中心に1つの星を据え、周りに6つの星を六角形状に配置した星紋で、北斗七星を象ったとも言われています。

田沼意次の幼名「龍助」と家紋「七曜紋」は、意次の父・意行が子宝に恵まれなかった時、七面大明神(しちめんだいみょうじん)に祈願して授かったことに由来するとされています。七面大明神は北斗七星を神格化した神様であり、意行はこれにちなんで家紋を七曜紋に変更したと言われています。

出典:

田沼意次の生涯【3つの時期で解説】

田沼意次の生涯は、大きく3つの時期に分けられます。

第1期:出世期(1719-1767年)小姓から側用人へ

徳川家重・家治に仕える

享保4年(1719年)に江戸で生まれた田沼意次は、享保20年(1735年)3月、17歳の時に父・意行の死去により家督を相続し、父と同じく600石を家禄として与えられました

意次は、8代将軍・徳川吉宗の後継者である徳川家重の小姓として仕え始め、延享2年(1745年)9月、吉宗から家重へ将軍職が譲られると、意次は引き続き家重の小姓を務め、翌年には小姓頭取に昇進しました。

家重は言語障害があり、その言葉を理解できる側近はごくわずかでしたが、意次はその一人でした。家重の遺言には「またうと(正直な人)」という言葉があり、意次への信頼の厚さを示しています。

郡上一揆の裁定を担当

宝暦4年(1754年)から宝暦8年(1758年)にかけて、美濃国郡上藩(現在の岐阜県郡上市)で郡上一揆が発生しました。藩主・金森頼錦が過酷な年貢増徴を行ったため、農民たちが江戸幕府に直訴した大規模な一揆でした。

この一揆の処理において、将軍・家重の命により田沼意次も評議に加わりました。幕府は郡上藩主・金森氏を改易(藩の取り潰し)とし、金森氏を応援していた老中・若年寄らも失脚しました。この裁判を審理し事態を収拾したことで、意次の存在が幕府内で注目され、台頭のきっかけとなりました。

1万石の大名に昇進

宝暦8年(1758年)、意次は1万石を拝領し、遠江国相良(現在の静岡県牧之原市)の藩主となり、大名に列しました。これは、足軽出身の旗本から大名への異例の出世でした。

第2期:田沼時代(1767-1784年)側用人から老中へ

側用人就任と「田沼時代」の始まり

宝暦10年(1760年)、家重の跡を継いで10代将軍・徳川家治が就任すると、意次は家治からも厚い信任を得ました。

明和4年(1767年)7月、意次は側用人(そばようにん)に就任し、幕政の実権を握るようになりました。側用人とは、将軍の側近として政務を補佐する重要な役職です。

明和6年(1769年)には老中格、安永元年(1772年)1月には正式に老中に就任しました。これは、御家人(旗本)から側用人を経て老中になった初めての例であり、異例の大抜擢でした。

この時期から天明6年(1786年)までを「田沼時代」と呼びます。

5万7,000石まで加増

意次は老中として活躍し、その功績により加増を重ね、最終的には5万7,000石の相良藩主となりました。紀州藩の足軽の家に生まれた意次が、大名として5万石を超える石高を得たことは、江戸時代を通じて極めて異例の出世でした。

第3期:失脚期(1784-1788年)息子暗殺から死去まで

天明4年(1784年)息子・意知の暗殺

天明4年(1784年)3月24日、嫡男で若年寄の田沼意知(おきとも)が江戸城内で旗本・佐野政言(さのまさこと)に斬りつけられ、2日後に死去しました。享年36歳でした。

この暗殺事件は、意次の権勢が衰える転機となりました。息子を失った悲しみと、幕府内での求心力の低下が重なり、意次の立場は急速に弱まっていきました。

天明6年(1786年)老中辞任・減封

天明6年(1786年)8月25日、将軍・徳川家治が死去しました。家治の死により、意次の後ろ盾を失いました。

同年9月、意次は老中を辞任させられ、領地も2万石減封されて3万7,000石となりました。さらに翌年には再び減封され、陸奥下村藩(現在の福島県)1万石へ転封となりました。

天明8年(1788年)死去

天明8年6月24日(1788年7月24日)、意次は江戸で死去しました。享年70歳でした。失脚後、わずか2年でこの世を去りました。

意次の死後、孫の田沼意明(おきあき)が陸奥下村藩の初代藩主となりましたが、田沼家はその後も小藩として存続しました。

出典

田沼意次の政治改革【田沼時代の重商主義】

田沼意次が老中として主導した政治改革は、従来の農業重視から商業重視の重商主義政策へと大きく転換したことが特徴です。

株仲間の奨励と専売制

商人組合に特権を与え運上金を徴収

田沼意次は、商人たちの同業組合である株仲間(かぶなかま)を積極的に公認し、独占的な営業権を与える代わりに、運上金(うんじょうきん)や冥加金(みょうがきん)という税金を徴収しました。

株仲間とは、同じ業種の商人たちが集まって作った組織で、幕府から公認されると、その業種での独占的な営業権が与えられました。意次はこの仕組みを利用して、幕府の収入を増やそうとしたのです。

専売制の導入(真鍮座・銅座)

また、意次は専売制も導入しました。真鍮(しんちゅう)や銅などの重要物資について、特定の商人グループに独占的な販売権を与え、その代わりに運上金を納めさせました。

これらの政策により、幕府の財政収入は大幅に増加しましたが、一方で、特権を得た商人たちが賄賂を送るなど、癒着の温床にもなりました。

印旛沼・手賀沼の干拓計画

新田開発による収入増を目指す

意次は、下総国(現在の千葉県)の印旛沼(いんばぬま)と手賀沼(てがぬま)を干拓して新田を開発し、幕府の収入を増やす計画を立てました。

天明2年(1782年)に計画を立て、天明5年(1785年)10月から手賀沼干拓と並行して本格的工事に着手しました。大商人の資金を積極的に活用し、工事成功の際には新田の8割を出資者の取り分、残りの2割を地元の世話人に分配することとしました。

しかし、工事は困難を極め、多額の費用がかかりました。結局、意次の失脚により工事は中断され、計画は実現しませんでした。

蝦夷地開発とロシア交易

最上徳内らによる蝦夷地調査

意次は、北方の蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の開発にも力を入れました。探検家の最上徳内(もがみとくない)らを派遣して蝦夷地を調査させ、ロシアとの交易を計画しました。

蝦夷地は鉱物資源や海産物が豊富で、開発すれば大きな利益が見込めました。しかし、この計画も意次の失脚により実現しませんでした。

通貨政策(南鐐二朱銀)

金本位制への一歩

意次は、貨幣制度の改革にも取り組みました。明和9年(1772年)9月、勘定奉行の川井久敬の建策により、南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)という新しい銀貨を発行しました

これまで日本では、金貨と銀貨の交換比率が不安定で、経済に混乱をもたらしていました。南鐐二朱銀は、金貨1両の4分の1に相当する計数銀貨として、金貨との交換比率を固定した銀貨で、金本位制への移行を目指した画期的な政策でした。

長崎貿易の拡大

俵物(干し鮑・ふかひれ)の輸出奨励

意次は、長崎での対外貿易を拡大し、俵物(たわらもの)と呼ばれる海産物(干し鮑、ふかひれ、なまこなど)の輸出を奨励しました。

これらの海産物は中国で高値で取引され、日本は銀を輸入することができました。意次は、貿易による利益を幕府の収入源とすることを目指しました。

【田沼時代の主要政策一覧】

政策名内容目的結果
株仲間の奨励商人組合に特権を与え運上金を徴収幕府収入の増加収入は増えたが賄賂の温床に
印旛沼・手賀沼の干拓新田開発による収入増幕府収入の増加失脚により中断
蝦夷地開発最上徳内らによる調査、ロシア交易新たな収入源の確保失脚により頓挫
南鐐二朱銀の発行金貨との交換比率を固定した銀貨貨幣制度の安定化一定の成果
長崎貿易の拡大俵物の輸出奨励貿易による収入増一定の成果

出典:

田沼意知の暗殺事件【息子を失った悲劇】

田沼意知とは?異例の出世を遂げた嫡男

寛延2年(1749年)生まれの跡継ぎ

田沼意知(たぬまおきとも)は、寛延2年(1749年)、田沼意次と継室・黒沢定紀の娘との間に長男(または次男)として誕生しました。幼名は竜助(りゅうすけ)で、父・意次と同じ幼名でした。

明和元年(1764年)1月、16歳の時に10代将軍・徳川家治に仕え始めました

若年寄に異例の抜擢

父・意次の全盛期である天明元年(1781年)、意知は奏者番(そうしゃばん)に就任し、翌年には山城守の官位を授けられました。

そして天明3年(1783年)、意知は若年寄(わかどしより)に昇進しました。若年寄とは、老中を補佐しつつ幕政に参与する重要な役職です。意知はまだ家督を継いでいない身でありながら若年寄に就任したため、これは極めて異例の出世でした。

廩米(りんまい)5,000俵を与えられたことも、当時の意知の権勢の強さを物語っています。

宮沢氷魚が「べらぼう」で演じる

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、宮沢氷魚が田沼意知を演じています

ドラマでは、意知が必要となれば身分を隠して吉原に潜入するなど、若くして政治的手腕を発揮する「悲劇のプリンス」として描かれています。

天明4年(1784年)3月24日の暗殺事件

江戸城内での突然の襲撃

天明4年(1784年)3月24日、午後1時頃、江戸城内で事件は起こりました。

この日の政務を終えた意知は、同じ若年寄の掛川藩主・太田資愛(おおたすけよし)、出羽松山藩主・酒井忠休(さかいただよし)と一緒に、江戸城から退出しようとしていました。

新番組(しんばんぐみ)の詰所前を通りかかった意知に対して、警備のために詰めていた旗本・佐野政言(さのまさこと)が突然、刀を抜いて走り出し、斬りかかりました

「覚えがあろう」の言葉

佐野政言は「覚えがあろう」という言葉を3度繰り返したという説があります。

意知は殿中(江戸城内)なので刀を抜くことができず、脇差の鞘(さや)でなんとか政言の攻撃を受け止めようとしましたが、防ぎきれませんでした。

政言の初太刀は意知の肩口から袈裟懸け(けさがけ)に振り下ろされ、長さ3寸、深さ7分ほどの深手を負いました。

両股に深手を負い倒れる

後ずさりしながら桔梗の間(ききょうのま)へと逃げた意知でしたが、追いかけてきた政言によって、両股(りょうまた)に深手を負わされ、うつぶせに倒れました

その後、大目付の松平対馬守が政言を羽交い絞めにし、柳生主膳正が政言の刀を奪って取り押さえました。

天明4年(1784年)4月2日死去、享年36

意知は手当てを受けましたが、傷が深く、天明4年(1784年)4月2日、死去しました。享年36歳でした。

佐野政言は事件後すぐに切腹を命じられました。

暗殺の理由と影響

佐野政言の動機(諸説あり)

佐野政言が意知を暗殺した動機については、当時からはっきりとわかっておらず、諸説あります。

【主な説】

説1:猟官運動の失敗への恨み
佐野政言は、田沼意次の用人に大金を贈って出世を願ったが、その望みが叶わなかったため、意知に遺恨を抱いていたという説。

説2:系図改竄事件への反発
佐野家の系図を改竄しようとして意知に拒絶され、恨みを抱いたという説。

説3:社会不満の爆発
天明の大飢饉による社会不安の中、田沼政権への反発感情が佐野政言を突き動かしたという説。

意次の権勢衰退の始まり

息子・意知の死は、田沼意次の権勢が衰える決定的な転機となりました。

跡継ぎを失った悲しみと、幕府内での求心力の低下が重なり、意次の立場は急速に弱まっていきました。

佐野政言は「世直し大明神」に

驚くべきことに、意知を殺した佐野政言は、庶民から「世直し大明神(よなおしだいみょうじん)」と称えられました。

田沼政権への反発が強かった民衆は、政言の行為を「世直し」として歓迎したのです。意知が斬られたにもかかわらず、意知に対する同情はほとんどありませんでした。

田沼意知の子孫

嫡男・意明が家督相続

意知の嫡男・田沼意明(おきあき)は、安永2年(1773年)生まれで、祖父・意次の失脚後、陸奥下村藩(現在の福島県)の初代藩主となりました。

田沼家はその後も小藩として明治維新まで存続しました。

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田沼意次の失脚【3つの理由】

田沼意次が老中を辞任し失脚した背景には、3つの大きな理由がありました。

理由①:天明の大飢饉(1782-1787年)

全国で飢餓・一揆が多発

天明2年(1782年)から天明7年(1787年)にかけて、天明の大飢饉(てんめいのだいききん)が日本全国を襲いました。これは享保の大飢饉、天保の大飢饉と並ぶ「江戸三大飢饉」の一つで、その中でも最も被害が深刻でした。

天明3年(1783年)7月には浅間山(あさまやま)が大噴火し、火山灰が東北地方一帯に降り注ぎ、農作物に壊滅的な被害を与えました。東北地方を中心に冷害も続き、米が大凶作となりました。

全国で多数の餓死者が出て、約92万人が命を落としたとされています。飢饉は広範囲な社会不安を引き起こし、百姓一揆や打ちこわしが各地で発生しました。

田沼政治への批判が高まる

田沼意次は商業重視の重商主義政策を推進していましたが、飢饉への対応が後手に回り、民衆の不満が高まりました。

特に天明7年(1787年)5月には、天明の打ちこわしと呼ばれる大規模な暴動が江戸で発生しました。米価の高騰に苦しんだ民衆が、米屋や両替商など約千軒以上を襲撃する事態となりました。

こうした社会不安が、田沼政権の弱体化と失脚の一因となったと言われています。

理由②:賄賂政治の横行

「役人の子はにぎにぎをよく覚え」の川柳

田沼時代と言えば、賄賂(わいろ)が横行した金権政治の時代というイメージがあります。

有名な川柳に、「役人の子はにぎにぎをよく覚え」というものがあります。これは、役人が幼い頃から賄賂を受け取る姿を見て育ち、自然と賄賂の受け取り方を覚えてしまう、という皮肉を込めた歌です。

実態と後世の評価

しかし、賄賂が横行したのは田沼時代に限ったことではなく、元禄時代(17世紀末)から既に問題視されていました。新井白石も、賄賂分を上乗せした工事代を支払うようになったので元禄期に財政危機に陥ったと指摘しています。

田沼意次自身が賄賂を受け取っていたかどうかについては、歴史学者の間で意見が分かれています。

近年の研究での再評価

歴史学者の大石慎三郎は、「意次自身の汚職は、失脚後に政敵の松平定信などが作り出した話」と主張しています。実際、同時代の政治家には賄賂を受け取った史料が残っているのに対し、意次にはそれが皆無だったという指摘もあります。

藤田覚は、「田沼時代は賄賂が特に横行した時代ではあったが、賄賂を受け取ること自体は特別なことではなかった」としつつも、「田沼は独裁的な権力を持ち、賄賂攻勢を受けたため目立つ存在だった」と述べています。

いずれにしても、田沼時代は商業を重視した政策をとったという面から、一定程度、賄賂が横行していたのは事実だと言えるでしょう。

理由③:将軍・家治の死去と一橋治済の策謀

天明6年(1786年)8月25日、家治死去

天明6年(1786年)8月25日、10代将軍・徳川家治が江戸城で死去しました。享年50歳(満49歳没)でした。死因は脚気衝心(脚気による心不全)と推定されています。

家治は意次の後ろ盾であり、意次が大胆な重商主義政策を推進し得たのも家治の後援があってのことでした。家治の死によって、意次は最大の後ろ盾を失いました。

反田沼派の台頭

家治の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に、反田沼派や一橋家(徳川治済・はるさだ)の策謀により、意次は失脚の道をたどりました。

一橋治済は、11代将軍となった徳川家斉の実父であり、大御所として強大な権力を持つことになります。治済は田沼政権に対して批判的な立場を取っていました。

天明6年(1786年)8月27日、老中辞任・減封

天明6年(1786年)8月27日、意次は老中を辞任させられ、雁間詰(かりのまづめ)に降格しました

意次が老中を辞任すると、彼の引き立てで老中となった水野忠友は、娘と結婚させ養子としていた意次の四男(後の田沼意正)を義絶し田沼家に送り返しました。意知に娘(故人)を嫁がせていた老中・松平康福は「以後意次とは交際しない」という旨の届出を幕府に提出。意次に取り立てられて奥医師になった千賀道隆も意次との関係を絶った旨の届出を幕府に出しました。

さらに減封され陸奥下村藩1万石へ

閏10月5日、意次は家治時代の加増分の2万石を没収され、3万7,000石に減封されました。さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡し、意次本人の謹慎も命じられました。

その後、意次はさらに減封され、陸奥下村藩(現在の福島県)1万石へ転封となりました。

出典:

田沼意次と松平定信の対立

田沼意次の失脚後、老中に就任したのが松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。定信は意次とは正反対の政策を推進し、両者の対立は江戸時代の政治史において象徴的な存在となっています。

重商主義vs質素倹約の対立軸

田沼意次と松平定信の政治は、根本的な考え方が正反対でした。

田沼意次の政策(1767-1786年)

  • 商業振興:株仲間を奨励し、運上金で幕府収入を増やす
  • 積極財政:新田開発、蝦夷地開発など公共事業を推進
  • 文化の繁栄:商業の発展により、江戸文化が華やかに花開いた

松平定信の政策(1787-1793年)

  • 農業重視:農本主義に回帰し、商業を抑制
  • 緊縮財政:倹約令により幕府支出を徹底的に削減
  • 風紀取り締まり:異学の禁、出版統制により文化を抑圧

定信が行った「寛政の改革」は、そのほとんどが田沼時代に推進された重商主義への反動でした。定信は田沼時代に行われた政策を一掃し、緊縮財政と風紀の取り締まりによって幕政を安定させようとしたのです。

松平定信による田沼政治の否定

定信の田沼への対抗心

松平定信は8代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、本来なら将軍になってもおかしくない家柄でしたが、田沼意次の策略によって白河藩の松平家へ養子に出されてしまったと信じていました。

この個人的な怨恨もあり、定信は老中就任後、田沼意次に近い幕閣をすべて罷免し、田沼時代の政策を徹底的に否定しました。

近年の研究:連続性も指摘される

ただし、近年の研究では、定信の寛政の改革は田沼政治との連続面もあったと指摘されています。

徳川黎明会徳川林政史研究所編著『江戸時代の古文書を読む―寛政の改革』では、「定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、現実の政治は、田沼政治を継承した面が多々みられる。

とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農と連携しながらその改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたといってよいであろう」と述べられています。

「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」

定信の厳しすぎる倹約政策に対し、庶民の間で次のような狂歌が流行しました。

白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき

意味:白河(松平定信)の政治は清廉潔白すぎて窮屈で、まるで清流には魚が棲めないようなものだ。多少は濁っていても、生活が豊かで文化も華やかだった田沼時代が恋しい。

この狂歌は、定信の改革が経済を停滞させ、文化も廃れさせたことへの庶民の不満を表しています。たとえ賄賂が横行する政治だったとしても、生活が豊かで文化が花開いた田沼時代を、民衆は懐かしんだのです。

田沼意次vs松平定信の政策比較

項目田沼意次(1767-1786年)松平定信(1787-1793年)
経済政策商業振興・株仲間奨励農業重視・商業抑制
財政運営積極財政・新たな財源開拓緊縮財政・歳出削減
文化政策文化の繁栄を容認風紀取り締まり・出版統制
思想統制比較的自由異学の禁(朱子学以外禁止)
結果賄賂横行も経済は活性化財政再建も経済停滞・6年で挫折
民衆の評価「濁り」だが生活は豊か「清すぎて」窮屈

→ 松平定信の詳しい生涯と寛政の改革の内容については、「松平定信とは?生涯・業績・田沼意次との対立を徹底解説」および「寛政の改革とは?内容・結果・失敗理由をわかりやすく解説」をご覧ください。

出典:

田沼意次の死因と最後

天明8年(1788年)7月24日、江戸で死去

田沼意次は、老中を辞任し失脚してから約2年後の天明8年(1788年)7月24日(西暦1788年8月25日)の夕刻、江戸で死去しました。享年70歳でした。

臨終の際には、一族と奥医師の桂川甫周(かつらがわほしゅう)に看取られながら、静かに息を引き取ったと伝えられています。

死因は心臓病か

意次の死因は、はっきりと判明していませんが、心臓病であったのではないかと言われています

失脚後、意次は蟄居謹慎(ちっきょきんしん)の身となり、江戸屋敷で過ごしていました。息子・意知を失った悲しみと、自らの失脚による失意が重なり、心身ともに衰弱していたと考えられます。

戒名は「隆興院殿耆山良英大居士(りゅうこういんでんきざんりょうえいだいこじ)」です。

失脚後の蟄居生活

領地の大部分を没収

意次は老中辞任後、閏10月5日に家治時代の加増分の2万石を没収され、3万7,000石に減封されました。さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡し、意次本人の謹慎も命じられました。

その後、所領はさらに削減され、陸奥下村藩(現在の福島県)1万石へ転封となりました。遠江国相良城(現在の静岡県牧之原市)も破却されました。

周囲の人々からの絶縁

意次が老中を辞任すると、彼の引き立てで老中となった水野忠友は、娘と結婚させ養子としていた意次の四男(後の田沼意正)を義絶し田沼家に送り返しました。意知に娘(故人)を嫁がせていた老中・松平康福は「以後意次とは交際しない」という旨の届出を幕府に提出。意次に取り立てられて奥医師になった千賀道隆も意次との関係を絶った旨の届出を幕府に出しました。

失意のうちに死去

こうして、田沼意次は失脚後わずか2年で、周囲から見放され、孤立した状態で失意のうちに70歳の生涯を閉じました

孫の龍助が陸奥下村藩主に

意次の死後、孫の田沼意明(おきあき)が陸奥下村藩の初代藩主となりました。意明は意次の嫡男・意知の長男で、安永2年(1773年)生まれでした。

しかし、意明に与えられた1万石の地の実高は半分にも満たなかったそうで、意次の死から間もない天明8年9月には、幕府から意明に対し莫大な費用のかかる河川工事が命じられ、田沼家の蓄財は無くなってしまったといいます。

また、意明はしばらく将軍への拝謁も許されず、初めて拝謁したのは寛政3年(1791年)10月、叙爵し淡路守に任じられたのも同年12月になってからでした。

田沼家はその後も不遇の時代を過ごしましたが、幕末まで存続し、明治維新を迎えました。

墓所は東京都豊島区の勝林寺

田沼意次の墓所は、東京都豊島区駒込7丁目にある勝林寺(しょうりんじ)にあります。勝林寺は臨済宗妙心寺派に属する寺院で、その起源は元和元年(1615年)に遡ります。

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